平成最後の正月に思い出す、昭和最後の正月の光景


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21歳の祖父。


昭和天皇崩御のニュースをテレビで観たのは、祖父母と一緒に伊豆の別荘にいたときでした。

(祖父の羽振りが良かった頃に手に入れた別荘が那須高原伊豆高原にあり、夏は那須高原、冬とくに正月は家族で伊豆高原で過ごすことが多くありました。)


一緒にテレビを観ていた祖父が、声をあげて泣きだしました。


当時5歳だった私には、昭和が終わったことも、その意味もわかりませんでしたが、母に目配せされて私たちは祖父のいた部屋から出て行きました。

「いつも悠然としていて、ややニヒルに笑いながら子供達を見守ってくれるおじいちゃん」というのが私の祖父の印象でした。

その祖父が泣く。しかも激しく声を上げて、というのは驚きで、その理由も全くわかりませんでした。


きっとあのとき、日本中でかなりの人が祖父と同じように泣いたのでしょう。

さまざまな思いを抱えて。


私の祖父は、戦時中、陸軍航空隊の戦闘機のパイロットでした。

陸軍士官学校を出た職業軍人

剣道七段。

士官学校時代から剣道は抜きんでていたようで、御前試合にも出場したそうです。


祖父の家は神田の帽子屋でした。

今の神保町古書店街あたりにあったようで、皇室御用達だったという話しも聞いたことがあります。

そこの家には子供が生まれなかったため、祖父は育ての母の妹のところから養子にもらわれてきました。

本人には知らされず育ったそうですが、一人っ子なのに二のつく名前だったり、遊びに行くとおばさんが妙に嬉しそうだったり、いつしか知ることになったのでしょう。

その時代のなかで親孝行と思える選択をしたのにはそういう背景もあるのかなと思います。


戦争中のことはよく知りませんが、一式戦闘機「隼」に乗って、台湾の高尾の基地から世界中あちこちに行っていたようです。

伊豆高原の別荘の壁には、ずっと長いこと隼の写真が飾ってありました。


幸い戦争中に命を落とすことはありませんでしたが、当然危ういことは何度かあったようです。

一度はパプワニューギニアで撃ち落とされ命が危ういところでしたが、落ちたところにちょうど野戦病院を作る視察のため来ていた医師団がいて、すぐに手当てを受けることができたという強運の持ち主でもありました。

その怪我で内地に送還され、終戦のときは国内にいたようです。


祖父の手にはなぜか、撃たれた弾丸の破片が入ったままになっていました。

子供の頃、大きな黒いほくろのようなそれが不思議で、いつも触っていたのを覚えています。


祖母とは戦争中に結婚。

北海道出身の祖母は父親の知り合いのつてで東京に出てきていました。

茶道師範をしていた祖母は軍人さんの慰問お茶会のようなもので祖父と出会ったそうです。(お見合い的な要素があるものだったのかもしれません)


新婚時代は祖父について日本国内あちこちに行ったそうです。

ひとつの街から次の街に移動するときに前の街が空襲に遭って燃えているのが電車から見えたということが何回もあったと祖母が話していました。

祖母は「運がよかった」と言っていましたが、祖父のもとには軍から何か情報が入っていたのではないかと思います。


お墓まいりに行くたびに、自分が撃ち落とされそうになったときに助けてくれた人の話をしていました。

その人はそこで命を落としてしまったそうですが、自分がいなくなってもそういう人がいて今があるということを孫に覚えていて欲しかったのかもしれません。


神田は空襲が危ないということで、戦争中に家族は浦和に疎開

親戚が工場をやっていたツテを頼ってきたようです。

戦後すぐに私の父が生まれました。


戦後は自衛隊には入らず、一時無職になりました。

そのとき発明に没頭し、電熱線で熱を起こして調理する「電熱器」を商品化し特許をとりました。

電気で熱を起こす調理器具は当時画期的で、電熱器は大ヒット。たくさんのお金が入りました。

そこで友人の潰れかけた会社を引き取って社長になりました。

しばらくは羽振りが良かったようで、飲む、打つ、囲うと豪快に遊び、銀座の帝王と呼ばれていたそうです。

美術家のパトロンをやったりもしていたそう。

どんな意味のパトロンかはわかりませんが

那須高原伊豆高原の別荘を買ったのもこのころです。


とにかくよくお酒を飲んで、酔っ払っていたそうで、酔っ払って神田の駅前で大声で軍歌を歌っていたところに叔父が通りかかり声をかけたら「誰だ!」と言われて「息子だよ」ということがあったと叔父が話していました。


祖母と2人で世界中を旅行したりもしていました。

アフリカやペルーなども行っていたようです。


戦後、飛行機の免許を取ろうとしたこともあったそうですが、そのときの教官が海軍航空隊の出身で、ケンカしてやめてしまったとか


祖父の机に残されていた地球儀には飛行機の軌道のようなものが書き込まれていました。自分で飛んで行くつもりだったのか、祖母と行ったところの軌道を想像して描いたのかはわこりません。



私の父は会社の跡取りとして育てられ、好きな史学ではなく経営学を学ばせられました(大学院で史学を学びましたが)

祖父の会社の社員として働いていて母と結婚し、子供が生まれるというころに祖父の会社が倒産。

祖父と祖母は借金取りから逃げ回り、別荘や親戚の家に隠れ住んだりしていたそうです。


父は若い頃から集めていた骨董品を売ってその場をしのぎ、同じ業種で小さな会社を起こしましたがしばらくは苦労したようです。



私が知っている祖父の姿はその後ずいぶん経ってから。

朝は遅くまで寝ていて、起きてきたら熱い熱いお風呂に入り、リビングのソファに座ってタバコを吸い、孫が遊びに来ると相手をしてくれるわけではありませんでしたが、なんとなく見守ってくれていました。

祖父の家と私が住んでいた家は同じ敷地内にあり、孫たちはしょっちゅう自由に遊びに行っていました。


祖父は昼間出かけていることも多かったのですが、必ず朝、キスチョコ

ハーシー キスチョコレート 340g

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をひとつ置いていってくれました。(peaceの缶の上に!)

私たちは毎日ひとつずつのそれを楽しみにしていました。

祖父は帰ってきてキスチョコがなくなっているのを見ると、孫たちがきたことがわかって嬉しかったようです。


ピスタチオが好きで、ヘビースモーカーでpeaceの缶の中にピスタチオの殻をためていました。

お酒が好きで、洋酒のビンを集めて納戸の棚に並べていました。

発明は他にもいくつかしていて、特許もとっていたのですがあまり商売取り方がうまくなかったのか、すぐに追随されてしまったようです。

でも、研究は続けていたようで、机に向かって何か真剣に考えている姿をよく覚えています。


母方の祖母曰く「宇宙人のような人」

親戚が集まると必ずいろいろなエピソードが語られます。

昭和の時代の人らしい、豪快な人でした。


祖父は昭和が終わってすぐ、平成元年4月14日に亡くなりました。

朝遅く起きて、熱いお風呂に入ったところで突然死でした。


私はその日たまたま幼稚園が休みで家におり、祖母からの内線電話を受け、母に伝えました。

そのときの慌てて震えた祖母の声、ただ事ではない気配は忘れられません。

母が母屋に飛んでいき、祖父を風呂から引き上げました。

155cm足らずの母が180cmほどの大男だった祖父をお風呂から引き上げることができたのはまさに火事場の馬鹿力なのでしょう。


お葬式はものすごくたくさんの人が来ていました。

みんな、「昭和天皇のあとを追うように亡くなったね。」といっていました。


享年68歳。

生きていたら98歳。

平成の終わりをどんな気持ちで見ていたのでしょうか。


永遠の0

永遠の0 (講談社文庫)

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の主人公ように祖父の足跡を追うことができたらと思いつつ、子供3人抱えて自由には動けない身ですが、祖父のことを少しでも残したくて書いてみました。


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